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ウチは母親がハマっているので、かなりなヘビーローテーションなんだけれど、メシのときに見せられるのが苦痛でね。まあ断片だけなんだけれど、ひでえんだ(笑) ただ補足すれば、日本のドラマだってひでえからね^^
やっぱりね、視聴者はアタマが悪いというのを前提にしてモノを作るのが悪いんでないか^^ わかるやつだけわかれ、わからんやつは散れ、そううそぶくことって、ものつくりにとって重要な傲慢さじゃないかと思う。誰にでもわかるようなものを書くとかってほざくのはさ、いいともですよ(笑) オレはあんなバカなこと、絶対嫌だよ。
フジの騒動は、何と言うかかんと言うか(笑)
いやね、高岡氏やふかわ氏の言いたいことは分かるのですよ。それは、彼らはテレビに参入する側だから。テレビという存在の中で彼らのポジションが韓流に漸減されるというのは、メシにかかわってくるわけだからね。一昔前の、日本製品のボイコットと心理的には同じだよね。ふかわ氏のフェアネスの観点というのは、おそらく一面の真実なんだろうけれど、でもそんなの今に始まったことでないんでないの。自分たちもえこひいきやごり押しあっての芸能界の一員であるわけっしょ。たまたまその一角に韓国ものがあるといって、今更わかったようなことを言いだすのは、そんなにフェアではないと思うけれど、生活に関わるという論理ならばその部分についてうなずける。 だけれども一般の視聴者が云々というのは、またちょっと違うと思う。いや、生理的な反発というのならばまだわかる。そこにミョーな理屈や風潮が乗っかるのはどうもね。 どうせテレビしか見ないのなんて、必ず何かの情報に偏向されるしかない人達じゃないですか。そういう人達が韓流に洗脳されるのがマズイの? つうか、日にだって洗脳されているんだから同じだって。 まあ、席巻されるのは、まさしくふかわ氏の言うとおりで、テレビが終わっているってことだと思う。ただしそれは高岡氏やふかわ氏も含んでのことだよね。彼らはテレビの人でしょう。いくらただの兵隊だとしてもね。 今の韓流の膨張や中国のバブリーな有様って、かつての日本の焼き直しと、日本人には見えるところがある。まあ露骨なパクリから、正当な手続きを踏んだコンテンツのリメイクまで様々だけれども、そこにノスタルジーという居心地の良さを覚える人間と、自画像に苛立つ自己嫌悪の人間が真っ二つなのが今の日本なのかもしれない。もっと言えば、最早日本でノスタルジーの範疇の中でモノを作るには、テレビにフロンティアがなくなったのかもしれない。ポテンシャルを全て浪費してしまったのかもね。ふかわ氏のテレビの終焉という言葉は全く正しい。だけれどもそれは、フェアネスからの逸脱とは全く異なると思うんだよね。まさしく彼らも含めたコンテンツの作り手たちの衰弱こそがテレビの終わりを示しているんでないだろうか。 っていうか、そんなことを言い出さずともさ、平日昼にフジにチャンネル合わせれば、画面の中は絶望しかないでしょう。あんなバカな客が幼稚園のお遊戯みたいに声をそろえて手拍子でさ。バカばっかりじゃないですか。あれ見れば終わっているって一目瞭然じゃないか。悪いけど韓流もまあオーバーでひでえのはひでえけど、いいとものくだらなさよりひどいのを見つけるのも結構大変かもよ。
宇賀神さんの「ゴルフは上手くなったと思った途端に下手になっていく」というのはつくづく他者への理解と同じだと思うわけで、他人を理解したと思った瞬間に誤解が生じるという寂しいズレと、それを抱え持って生きるしかないっていう諦観が、僕の中でようやくハッキリしてきた感があります。
理解したと確信を持った人間の表情って、つくづく醜いよなあ。やっぱり僕の気質としては、散々迷い惑う人が好きだなあ。 そうそう、僕は作家の顔というものの中でも、賞を受賞したときのあの顕示欲が満面に表れる顔、あれが一等イヤですね。
文芸も商品だし消費されるものだけれども、藝術というのは経済であるにも拘らずその消費という概念を否定するとても人間臭いものなのであって、つまるところ矛盾であるわけですが、能天気にだれそれ風の作品とか、初手から亜流でね、そのくせ消費財としての確信的でもない有様に、くだらないなあとも思うわけでありますよ。
読者も魯鈍であるわけだから、先例のない作品を受け付けない保守的閉塞的読解力で、亜流を求めながらも、亜流を亜流として軽侮する。亜流でなければ流通せずに商品価値がないけれど、亜流であるから動脈硬化に及ぶ。 僕は一昔前はそれを糾弾する気分であったのだけれども、それはそもそも商品であるから悪いということに段々向かってきたわけで。 しかし、そのくせ平然とどの口が様式や形式は良くないとかって言うんだよねえ。自分の中で整合しないで断片だけで思考しちゃいかんよなあ。
僕が十代の頃というのは、日本人のスタンダード的なイメージに対するアンチテーゼが大はやりの時期で、とかく日本人は自己主張しなければだめだという論調がそこかしこにあった。中田ヒデなんて同学年だけれども、その結晶体のような気がする。結論から言うと、自己主張っていう言葉に酔いしれていたあのアンチテーゼは結局空疎だったような気がするし、第一自己主張する人間なんてどう理屈をつくろったところで薄汚いんだよね。
美しいままで埋まっていくか、薄汚いほど脂ぎって生きるか。そういう択一の中で、やむを得ず薄汚さを選択するということと、単に自己主張って世界の常識なんだからそうしなきゃダメッってキュンキュンするのと、根本から違うんだな。村上龍くらいアタマが悪いとキュンキュンでちょうどいいんだろうけど。 別に日本に限らず、大きな惑いの時代だと思います。自己主張なんて勉強不足で恥知らずでアタマが悪けりゃいくらでもできるけれど、そういう自己に躊躇してしまうほど、自分の中の心棒になる絶対って乏しい。そういうものはほんの少しを、長い時間をかけて手探りで、ようやく見つけられるんじゃないかと思う。そうでないのは恥ずかしいよ。
自分には業があるから、他人よりもずっと餓えて、だから満足できないし、走り続けるしかない。
もっともらしい。だけれども結局他人のことなんてそれは想起できるのか。 誰だって業があり、誰にしも生活があり、汚濁の中で清浄に焦がれ、手の届く範囲の者を必死に守ろうとし、届かぬものに苛まれる。芸能人、芸術家、スポーツ選手、そういう連中が特別なわけではない。 才芸の違いというものは人間にはある。個性の差というものもある。僕もずっと、そういうものに幻惑されて生きてきたし、そういうものがある人間は立派だと思っていたけれど、そろそろ卒業してもいい頃だという気分でいる。結局どうしたところで、人間は他人のことは理解できないし、理解したつもりになっているものはその人間の思い上がりでしかない。俗世の中で様々に力を持った人間、日当たりのいい人間は、その思い上がりを思い上がりとさらされることが乏しいから、ついそれを真実だと思うし、自分のように生きない人間をダメだと理解することで理解を終えてしまう。別にそのことを糾弾するつもりもないし、僕自身も同様だ。だから結局、もし神様という存在があるならば、人間なんて等しく愚かなんだろうとつくづく思う。人間の平等って、多分等しく立派だということではなくて、尊厳とかそんな上等なものでなくて、みんな愚かでみんな醜いということなんだろうと思う。その中で賢く、美しく生きるというのはどういうことなのか、誰もが自分なりの答えを求められるのが生なんだろうね。 誰にしも業があり、誰もが自分を持て余している。自分にとっての何かを解決するのに、それを克服する人もいれば、逃避する人もいて、俗世的には克服した人間が成功者、勝ち組ということになるのだろうけれど、僕らは少し、俗世の成功とやらを尊び、不遇を嫌悪しすぎなんだろう。立ち向かっても、逃げ出しても、別にどちらかが偉いわけではない。例え社会的な成功があったところで、特別でもなんでもない。醜い勝利者という安直なベクトルで倒錯したくはないけれど、そんな人間腐るほどいる。 当たり前のように、誰かと同じように、僕も生きるのに苦労してます。でも不思議と僕らはお互い同じでも、他人のそれをお互い理解できないものだね。つくづく人間というのは愚かなものなんだろうね。
たかだか、十九二十の男の子や女の子というものは、たかが十九や二十でしかないのだけれど、しかし彼や彼女の中には間違いなく十九年や二十年という歳月が埋まっている。ぼくらは誰かを知ろうとし、理解しようとする時に、いつも彼や彼女のダイジェスト版でしかそれを為すことができない。親だろうと兄弟だろうと恋人だろうと、彼や彼女の歳月のすべてを共にすることもできないし、知ることもできない。幸いにして人間は誰も彼も愚かであるから、日常の中でそんなに深刻な懐疑に囚われずに生きていくことはできる。だけれども究極的にはできない。
それを要領よく、上手に、説明し、語れば、或いは通じるのかもしれないと若気の至りで思ったこともあった。そのつもりで書くことをはじめたわけではなかったけれど、結局他人に対する通じない、通じさせるというもどかしさ、それをおそらく惰性というのだろうけれど、僕は書くことを選択し、そして今に至る。望みは、到底まだ叶わない。もちろんそれは書く人間として認められることではない。むしろ書く人間として独歩しようとする時、様々なものを捨てなければならないのかもしれない現実に、立ち止まったり考え込んだりしてきた。 書くことは、僕の力の至らなさで、そんなに自由なのではない。僕自身も、ただ僕の内部だけで考えることさえも、そんなに自由ではない。僕はいつも僕自身という限度によって縛られているし、これからもずっとそうだ。そしてその僕の中で揺れ動きながら、それでいて揺らぎもせずに沈殿し続けている何かを、通じないことを承知の上で通じさせようとこれからももがくのか。 神秘のヴェールで自分を韜晦させて、さも何かあるように振舞うことで、或いは書き手になれるのかもしれないし、そんな不誠実がいくら散見しているといっても、自分にその僥倖がもたらされるのは宝くじくらいの確率なのかもしれない。そんな僕はおそらく他人に通じない。自分であるしがらみをいかにうまく語っても、結局通じない。多分、だから書き続けている。
表現の持つ怖さに対して無頓着であることに僕は苛立ってきて、それを過剰であると他人は言うけれども、過剰さを自分でもてあますから承知のうえで表現に乗り出さざるをえない悪循環真っ只中にいる身としては、ナイフを突きつけなければならなくなる。
当たり前のことだけれど、小説に用いる文体というものは、実社会に居場所がない。それはほとんど全て小説のためだけに存在し、転用がきかない。(転用がききそうな凡庸な散文を僕が嫌うせいでもある)
例えば仕事の範疇で、文章を頼まれることがある。苦ではないのだけれど、拘束される文体にフラストレーションがたまっていく。でも、であるから小説を書いているんだと思う。 日常性や実用性から切り離されない文体なんて好みじゃない。だから、仕方なく小説を書いてしまう。
結局何が言いたかったのか、というお決まりの問いを投げかける人がいたとすると、大抵僕はその思考それ自体が問題ではないのかと内心で思う。言葉にしないのは、してもいいのだけれど、当の本人が思考の自立性を確保していないことを言葉で告げても余り意味はないと思っているせいである。
何が言いたかったのかを知ることができたかできなかったかというのは、よその作家にすれば重要なのかもしれないけれど、少なくとも僕にとってはまったく重要ではない。他人がそうするのは止めやしないが、馬鹿馬鹿しいからやめろといいたい衝動には駆られる。 何が言いたいのか、それを知るだけの、例えば恋愛であるとか、人間的なコミュニケーションが仮に存在するならば、間違いなく内実はお寒いばかりだろう。何を言いたいか要約しあう恋愛なんて全く茶番だ。この地中海料理を間に語らう恋人は何を言いたがっているのか、それをセックスの前段なんて定義してしまえば、これほど味気なく悲しいことはない。余分、余剰、無駄、そういったものが渦を巻き、迂遠で、曖昧で、でもそれだから豊穣なのが人間の文化である。そういったものを余計であると取っ払って言いたいことを簡潔にまとめるというのは、ハッキリ言えば野人の蛮行なのである。つまりは非情に恥ずかしいことだ。 もちろん、生活の中であらゆることについて主題解析型のアプローチをしかける人間というのはそうは存在しないだろう。大抵の人間はちゃんとわかっているし、いちいち言いたい事はなどと聞きはしない。しかしそれが文学になった途端、アンチ文学は元より、自ら書くことに手を染める人間まで、平然とそんなことを尋ねてくるのにはちと困ってしまう。それは文学に対して自分が文化的な土壌を持ち合わせない、蛮人として臨んでいるのに他ならないのではないか。 もちろん一番トンチンカンでヘンテコなのは、そもそも一定の尺度において採点するなどというマジックを平然と行っている国語教育とやらで、無論何らかの国語領分の教育は行わねばならないからやむを得ないとは言っても、しかし芸術国語としての審美眼を持っているのか非情にアヤシイ人間たちが採点を行うための効率性確保のために、主題だの何だのとわけのわからないことが横行し、思考形態がそこから一歩も外にでることができない有様が厳然として存在するのに、僕はいい加減閉口してしまうし、少なくとも文学に関与していく中で道しるべとなるような国語教育は僕はちっとも受けてこなかったという落胆や侮蔑を、過去に対して今更ながらに感じている。
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