文章に対しての審美眼は、そう容易くは育まれない。絵画や美術に比べて、美しいと思う感動体験が乏しいように思われる。何をもって美しいか、自分なりの実感を裏打ちさせて書く人間はほとんどいない。バカのひとつ覚えのように簡潔美を主張するのも、過半以上は簡潔美の何が美であるかをわきまえること無く、鵜呑みの教条主義に徹しているのだから困ったものだ。であるから、簡潔というと余計なことを考えず、ストーリーの展開のみを記せばいいという発想を持った書き手も生じてくる。プロからしてこういうことを平然とのたまう。重厚な内容、重層的な世界を簡潔明瞭に描写していくということと、安直な展開のみを書くために余計なことを想像しないということとは決定的に異なる。
勿論、くどくどしい描写のてんこもりが優良になるということではない。 文章表現という媒体の特性として、1チャンネル型というものがある。音楽や絵画のように多重多層チャンネルが展開され、何らかのものを一瞬で複合的に展開するということを、文章表現は行えない。読み手の意識がリーディングするのは、速度差は個人で違うといっても、常に1トラックに終始するのである。この制約が、我々に簡潔明瞭の意識を強いてくる原因ともなる。文章表現は、全ての描写を忍耐強く順番通りに進めていかねばならないのである。 ただし、制約のない媒体は存在しない。この制約は文章表現の個性、特性というに等しい。であるから、文章表現における技術というものは、すべからくこの特性下においていかに何かを表現するかというところから端を発しているといえる。 空間は一様には存在しない。しかしながら文章表現は1チャンネルの展開しか許容されない。例えば二人の人間がいて、同時に喜びと悲しみを各々が浮かべたとする。文章表現はそれを同時に描写することはできない。 『Aは喜悦を、Bは哀憐の色を、それぞれ浮かべた』 このような表現にしても、文章が読み手にもたらす想起の効能には、やむを得ざるタイムラグがある。読み手の脳裏に同時に二人の人物の異なる表情は浮かばないのだ。 それをどうするか。 そのための方法論として技術が存在してくる。これは画像的状況に限定しない。五感のあらゆるもの、それらが同時に存在するものを、個別にしか描写できないというハンディをどう解決するか、それらの全てが技術になる。 技術というと単なるレトリックを連想しがちだが、それは方法論のサブディレクトリとしてのさらなる方法論のようなものであり、状況を解決する手段の一つに過ぎないともいえる。状況によっては、より作品戦略的に解決される手法もあるだろう。 ひとつのシチュエーションの表現につき、さまざまな方向性を模索する。それは自分の中にある、或いは靄がかった、ひとつのシーンのより明確な提示を苦吟するあらわれである。そこに苦慮していると、技術は不純であるとか、そういうものに頼るべきではないとか、そんな戯言に心底落胆する。自分で見定めもできない格言を鵜呑みにし、突貫するだけが純粋であるというのは、僕は表面上の純粋さらしきもののオナニーだと思う。技術探求が不純であるならば、僕は不純な誠実さの方がよほどましだ。
書くという行為が依拠するのは、共有を前提に存在していろ言語である。というよりも、そもそも人間の思惟それ自体が共有を前提とした言語に立脚している。言わば僕らは、言語という大海の中を漂うクラゲのようなものだ。クラゲには間違いなく実体がある。だがその内実には、大海の組成と等しい海水が充溢している。クラゲは己の血肉を主張するだろうし、それはまた事実ではあろうが、同時に滑稽でもあると外部からは見えるだろう。クラゲは自分の内側の言語に世界に一つだけの幻想を抱くだろうが、それは幻想に過ぎない。しかし幻想を内包するその存在は間違いなく現存している。
言語を用い何かを表現するということは、単に紙に言葉を連ね、物語を奏でて喜ぶという行為に終始しない。外部にも内部にも存在する言語存在の中で、自分にとってテクストを形成するに値する領域を選択し、自閉された一つの空間を作り出す。その空間の、外部とを隔てる皮膜は極めて薄く、透明であろうが、その不安定で危うい空間は、クラゲである自己より生じた気泡のようなものであり、おそらくその組成は自己の延長に近しくなるだろう。それを意識的に、戦略的に、自己の組成を自身で見定めたうえで自己の似姿を、むろんその表層上には巧みに隠蔽と露出の迷彩を施しながら、形作っていく。そうすれば、自己それ自体がクラゲという模造でありながら、同様に模造のクラゲがさらに模造の気泡を作り上げることもできるかもしれない。そこにクラゲの似姿の気泡という創造の余地が生まれる……。 自分との対峙は、恐ろしい。そんなことをせずとも、人はそれなりに生きていける。それなりに生きていけるということは、それなりに書いていくこと、それなりに表現していくということでもある。そして、それなりにそれを受け入れ、納得できる人もいるだろうし、満足できる人もいるだろう。それが納得できない、満足できないという人は、おそらく多くはない。そんな人間は不要であるからだ。だがそれでも、というよりだからこそ、バランスを全く欠落して自分を露呈してまでも表現しようとする人間もいる。 そこには傲慢さもあるだろう。無礼もあるだろう。だけれども僕は何よりそこに脅えがあるのだと思う。対峙しなければならないのは、対峙しなければ、自分がクラゲであることに屈しなければならないからだ。 言語を置いて、残念なことに少なくとも僕自身は存在しない。その言語が自分ものでないならば、自分も自分のものではない。自分が自分として自分自身の存在を実感するには、自分と対峙するしか術はないと愚昧な人間としては思う。しかし言語というのはどうしてこうも矛盾に満ちているものか。
小説を構成する最小単位は単語ということになるが、単語は書き手の所有物ではなく、同様と看做される言語系の中における共有物である。つまりは、僕らは書くという表現形式において、その根幹は自分独自のものを有していないことになる。絵画ならば、絵筆で自在に描くのではなく、ピースを埋め込むモザイク画に等しい。更に単語のみ共有でその配列は自在というわけにもいかない。文法という拘束があり、規範より安易な通例という言い回しがあり、自分独自の表現というものはその先の片隅に追いやられることになる。そして、その片隅のスペースいっぱいを独自性で満たしてしまう作品は、読み手にとっては読解を困難にさせる。
では書き手はその独自性を文章に拠らず、内容に置くべきであるという発想になるが、それは書いたことがない人間の思いつきか、でなければ痴人の夢である。表現の根幹、例えば愛であるとか、心であるとか、そういった概念性が共有化されている以上、その積み上げによって形成される中に存在する独自性などというものは、比率を割り出せば絶句するほどに過少になる。砂浜の砂粒ほどの割合だろう。その程度の部分で、ようやく書き手は自己の感性について言及することを許されるのである。 自己対峙を書き手が要求されるのは、自己の感性を自分の中に見出すためである。そしてそれは、自己の感性なるものが砂浜の砂粒ほどであればこそ、絶望的に深く、絶望的に遠くなければ到底手にすることなどはできない。自分の内に兆す感覚でさえ、言語の概念性の前にさらされ、共有化によって誘導されているものであるかもしれず、それがほとんど全てであるという無明の道程において、絶望と共に歩むのはであればこそである。 書き手は表現のレベルにおいて、感性と対極の拘束の中に叩き込まれるのであり、そもそもにして書き手の思惟それ自体が言語の概念性の虜になってしまっている。その二十苦の直中でにこやかに自己の感性などと言い出されても、僕は目を背けるしかない。自分が感性であると思い込んでいるシロモノには、絶望的に典拠がちゃんと準備されている。それは何も文芸の通弊なのではない。僕らが日暮らすリアルライフの人の交わりからして、自己決定のつもりの誘導、例えばそれが常識だとかモラルだと文化だとかという自己外のフォルム、そういった存在の影響下にあり、そこを一歩たりとも踏み出すことができない。その閉鎖された状況の中で、閉鎖された言語概念をベースに、更に閉鎖した小説を創造するというのは、自己完結という疑念を抱かぬ限りは極めてミニマムな世界として安定はするだろう。ただしそれに何の価値も存在はしない。 だが、虚偽の中から虚偽を高めて真実に昇華することは活路として存在する。僕らの世界は認識が言語にガチガチに支配されていながらも、時として言語の概念性を突破する自分の主観のみの突出ということがあり得る。カタチとして恋愛をしていたものが、いつしか真実の心情に至るのと似ている。それはあらゆるものにありうるのだと僕は思う。 一人の人間と真実、別たれがたいほどの交わりを結ぶに至ったならば、その間柄を言葉に表すのに、思慕や情愛では足りないだろう。愛するということ、といった、そんな言葉の概念を解体し、はるかに超克した地点に実情が存在する。僕らが人の世の万相を現していくことを使命とするならば、道具として言語を用いつつ、その言語を超えた地点に存在する何かを捕捉することを目指さなければならない。つまりは、僕らは言語を解体するために言語を構築するということになる。解体せず、そのまま飲み込むということは、幼児の言葉真似と同じになる。僕らは言語を自分の中で融解させ、我が焔と合致させつつ、それを万人に対して言葉として提示しなければならない。 それを感性というのならば、完成には無数の知性と無数の技術と、自分自身の生きざま、自己存在の全て、そういったものを坩堝の中に蕩尽した、その果てに漸くやってくるものだと僕は思う。感性を畏敬し、人の姿を畏敬し、想いを畏敬し、言葉の限界を覚えつつ言葉に畏敬を覚える。そうすれば、安直に感性などという言葉は本来は用いることなどできはしない。便利だからおおざっぱにそれを用いるということは、その人間の言語的な能力の浅薄さを吹聴するに等しいのである。 自分に感性など存在しない、というところから、感性を取得する長い旅路が始まる。
悪いことに小説の技巧的良しあしという鑑賞眼は、なかなかに育たない。
これが音楽や絵画だと、もちろん洗練なしには見定めのきかない技巧的優劣も山ほどあるけれど、小学生でも明らかにわかる部分も多々ある。 (ひどい歌声なのに、堂々とアーティストを名乗る誇大妄想患者も結構いるが) 小説はなかなかそういうわけにいかない。基本的に、小説を書こうとする人間は、相応の言語的技術を既に蓄積したうえでそれに挑むからだ。3歳からピアノ、ヴァイオリンとなると、なかなかに英才教育の口だが、言語の場合は生まれ落ちてから周囲の大人たちがひっきりなしに話しかけ、技術的習得を促す。言語修練に関しては僕らのほとんど全てが英才教育を受けているといえる。それだけに、出来て当たり前の領域の、さらなる上を目指さなければならない労苦が僕らにはある。僕らは文章表現の鑑賞眼を、自分が考える以上の水準で育まなければ到底小説なんて書けやしない。善し悪しを自分でわからない状況で、何ができるのだろうか。 当たり前のことを当たり前の水準でやれてしまえるのだから、ついつい小説は技巧ではなく感性だ、自分の気持ちを込めるのが大事だということを言い出してしまう。在る程度のそれ、万人が平然とやれるところのそれを、僕らは平然とやれてしまうし、自分の気持ちを込めるという高度な技術以上のハイレベルスキルを比較的あっけなく披露することもできる。それは、自分の気持ちを込めるということではなくて、自分の気持ちを込めたというふりをすることだ。 僕は小説表現における技巧そのものよりも、小説表現における技巧の存在に対して、何故アマチュア作家の多くがかくのごとく嫌悪を示すのかに違和感と興味とがある。 その所以の、安直な推察のひとつとして、僕も含めて小説を書く前段、国語教育のレベルの中で、僕らは小説のみならず文芸表現の技巧的スペクトル解析をちっとも行っていないことがあげられるのかもしれない。僕ばかりが特殊環境だったとも思えないのだが、詩文、短歌、俳句から、小説、説明文など、僕らが受けてきた国語教育はその大意をつかむことに狂奔するばかりで、表現レベルで、何故その一語を用いたのか、その表現を使用することによって生じる効果とはどういったものか、或いは模写、デフォルメ的実作実習は、といった、凡庸な教育から表現へとステップアップする部分を全く欠落させてしまっている。 個性を一様に主張する没個性、難解とされる小説や表現に対しその大意を読み取ることにのみ執着し、或いはそれのみで価値を定めるという視野、ひとりの表現者が、受けてきた教育にその表現限界を設定されてしまっているというのは実に馬鹿馬鹿しく、また表現に対する冒涜でもあるのだけれど、知らず知らずそういう陥穽の中でものを書く書き手は多い。だから、文章表現の美的センスや技巧の巧拙ということについて、感覚も鈍くなる。文章における様々な要素の中で、そういった部分もあるということを教える教師も、ほとんどいないのではないだろうか。少なくとも僕はそういう教師に出合ったことはなかった。小説作品で、若いころに感銘を受けたとか、人生の糧にしたとか、そういうことを語る教師はいた。或いは、志賀直哉は小説の神様だとかね。しかし何故神様で、神様と呼ばれる人の技術についてということを語る人はそうはいない。だから書き手は、それを実作の中で探し、学んでいかないとならなくなる。迷惑といえば迷惑な話なんだ(笑) 技巧を嫌悪する気持ちもわかる。大意ばかりを訪ねてこられる国語教育で、技巧というのは、その大意を推し量る行為に時として迂回を強いるものでもあるから。そして、言語表現において容易なのは、白黒はっきり迷いなく書くことで、困難であり技巧を強いられるのは、白とも黒ともつかないがという曖昧領域にある状況だ。ただ、人間が白黒はっきりつけられるというのは、リアルライフの中でほんのちょっとでしかない。 あいまいなものをより微細に、よりはっきりと書いていこうとする、それを詰め込み、並べ、息づかせる。そのためにはどうしても技巧が必要だ。可能な限りわかりやすくするというのは当然でありながらも、読めば難解だというのは、決して不誠実なことではない。むしろ、曖昧であることがわかっていながら技術を嫌悪してわざと黒白分かれるように書く方が、僕に言わせれば不実の極致ということになる。自分の力量が足りないせいで信じてもいないウソをつく。そういう後ろめたさの感覚を持たない書き手は、ある意味執筆に向くのかもしれないけれど、僕はクソだと思う。 今ないということは致し方がない。ほとんど全ての人は、引出しにスキルが足りない状態で、泥縄式に必死になって書くのだから。だから書き、書き続け、学べばいいし、今書くものでスキルが間に合わなかったならば、次でそれを用いればいい。技術なんて不純だと恥ずかしげもなく叫んで、いつまでたっても進歩のない書き手といずれが立派か、一目瞭然だ。 そして、大意をつかむという発想法から、一日も早く離脱することを僕はお勧めする。 表現において究極のレベルが簡素達意にあることは当然だ。だけれどもそれは簡素ながら、言外に恐ろしい濃密な空間を持っている。ただ簡単に書くことがそこに至るわけではない。そのための超高度な技巧を身につけるには、簡素達意からずっと迂回しなければ辿り着くことは不可なのだ。だからそれは、つかんだ大意をひょいひょいと書いているということとはまったく意味が異なるのである。 そもそも、作者の言いたいことを三十文字以内でまとめなさいといったアプローチが、文章表現においていかに冒涜的であるのかということを、僕はもっと考えてもらいたい。三十文字でまとめられるものならば、わざわざ数百枚も原稿なんて書かないのだ。テストの採点のためにいたしかたなくというエクスキューズを真に受けて、ものを表現するという極悪で崇高な行為に携わるのは、僕はやめてもらいたい。
ショートショートという形式に抵抗感がある。というより、プロフェッショナルの職人芸としてのそれに何ら不都合はなく、僕自身も愛好家の一人だけれども、アマチュアが安直にそれを志すことに懐疑的だ。もっと露骨に言えば、短編小説の精巧さ、長編小説の錯綜を敬遠して、これならば自分の手に収まるという発想でアマチュアがショートショートに挑み、その主体として彼らが認識するネタ・オチを追求するというスタンスがよろしくないのだと僕は思う。
短編や長編がビギナーの手に余るのは当然だ。同様にショートショートも同じである。ショートショートはその点、ビギナーに甘く見られている。 量が短ければ短いほど、洗練された技巧が求められるのは当然のことだ。長編ならば量でカバーできるところを、短編では不可能であり、SSはそもそもその発想が存在しないはずだ。長編ならば書き手独自の感性について、順を追い、さまざまな角度からゆっくり展開していくこともできれば、読み手の感覚との相違について時間をかけて解きほぐすアプローチももくろめる。短編はそれは極めて困難で、SSは不可能だ。極端な言い方をすれば、SSは奇抜さはあっても、それは万人にとって解釈のわかれる奇抜さとは異なる。奇を奇として自分も読み手も認識するところを循環するのだから、理屈からすればSSに書き手独自の感性などというものは不要になる。SSの書き手が自分の個性や感性と言い出すのには、僕はちょっと待てと言いたくなる。技巧、才気、山っ気、そういう気分ならば理解できるけれど。 「このネタ、このオチ、小説に使えそうだな」 致し方がないとはいえ、僕はこういう態度は基本的に好きではない。 小説というものが、笑いや痛快さを含んだ、人のあらゆる情動を誘発させる存在であり、人間の実相と妄想とを包括する、現実と地続きでありそして現実と遊離した空間の表現をもくろむ媒体であるならば、SSの管轄する世界観はまぎれもなくその一角であると同時に、ただ一角でしかない。構成、展開が鋳型のように定まっているSSは、それだけに軽妙さや他の様々な魅力を担いながら、その鋳型のためにどうしても限界がある。真実、自分自身の感性、他人に語ろうとして小説という媒体以外にどうあっても語りえない自分の感覚というものを展開するのに、SSの形式は絶望的に不自由だ。そもそも小説は、形式的な約束事を排除することによって自由を手にした媒体である。それが、形式的自由を好んで投げうって狭い穴倉に潜り込んで喜々とする、それもそれが職人芸とするならば見上げたものだ、だけれども、そのことによって表現の万能自由を獲得したような錯覚に陥るのは見苦しいのだ。 ネタ、オチ、自分の生きるフィールドの全てがそれのみで構成されている世界というのは本来ならばありえない。五十を過ぎてお菓子系プラトニックコテコテ恋愛クリーミー仕立て小説を仕事でなく喜んで書いてご満悦のオッチャンやオバハンがいたら、読む方は腰砕けだ。美しいものも、醜いものも、稀有なものも凡庸なものも、僕らの世界にはそれぞれが散りばめられているし、僕ら各々のその世界はそれぞれが全く異なっている。小説がそこに橋を架けるものならば、ネタ・オチがきっかけやスパイスにはなるとしても、それ以上の何の期待ができるのか。 SSの書き手が、読み手に喜んでもらおうという一心で筆先を鋭く練磨する態度に、僕は心打たれる。だけれどもネタ・オチのご披露でございというスタンス、そこに技巧的洗練を志そうといない安直さに、僕は辟易とする。 小説の多面性、複雑怪奇で微細に過ぎる渦を敬遠する気持ちはよくわかる。だけれども、だからといってSSは安直に、ノースキルでやれると考える発想に、僕は叫びだしたくなるわけだ。そんなことにかまけるくらいならば、小説の恐ろしい海の中で溺れもがいて浮かび上がってくるなと僕は叫びたい。 < 前のページ次のページ >
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