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文化と感性
 石田純一が不倫は文化と発言して世のヒンシュクを買ったのは、ムスカに言わせれば「バカどもにはちょうどいい目くらまし」みたいなもので、そもそも人間というものは生殖でさえ文化ですからね。文化から遮断されたセックスなんてものは人間に限って言えば存在しないのだし、その派生系の不倫が文化であるのは当たり前。ただ、文化というものを自分という存在の外部に位置する何事かと考える人にとっては、それは甚だ都合が悪くなる。自分の主体的存在意義(ぱーでもわかる言葉で言うと、感性ということになる)の埒外によって翻弄され、人間存在の意志がグシャグシャにされるのを耐えがたく思う近代人というのはいるわけですが、そういう人を見かけるとつい僕は、感性などというろくでないものこそ文化という外部存在の隷下にしかないじゃないですかねと、皮肉を言いたくなってしまうのです。
 近代人の前提条件が個であるならば、その変遷は、個の約束であった神との関係性を断ち切ってからは、個の存在する理屈として、例えば才芸であるとか、個性であるとか、感性といったものをあてがったわけですが、僕は子供の頃から、本に陶酔してぽやんとしているキャラクターが欺瞞に思えてならないかわいげナッシングのガキンチョだったので、文化に隷属し、呪縛されていても、ちっともプライド傷つかんのです。そもそも主体的意志なんてアヤシゲな信仰を持った例はないしね。
 今、モンペアだ何だと、今更ながらに騒いでいるけれど、僕は個というものの限界に思えるんですね。個、その自己が、昔は神と交尾していたくらいの絶対であったのが、神と手を切った後も延々続いているわけで、それが社会生活の中で満足するオナニーであれば他人様に迷惑はかけないけれど、そうじゃないオナニーが肥大するというのが、個をベースにした社会の限界点でないかと思うのであります。
 まあ世の中が上等になってきて、誰も「こんなクズに生きる価値なんぞない」と言わないから、オナニーの自覚がない悪循環になるんだけどね。
by j_or_d | 2012-01-31 23:25 | 書くこと | Comments(0)
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