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石田純一が不倫は文化と発言して世のヒンシュクを買ったのは、ムスカに言わせれば「バカどもにはちょうどいい目くらまし」みたいなもので、そもそも人間というものは生殖でさえ文化ですからね。文化から遮断されたセックスなんてものは人間に限って言えば存在しないのだし、その派生系の不倫が文化であるのは当たり前。ただ、文化というものを自分という存在の外部に位置する何事かと考える人にとっては、それは甚だ都合が悪くなる。自分の主体的存在意義(ぱーでもわかる言葉で言うと、感性ということになる)の埒外によって翻弄され、人間存在の意志がグシャグシャにされるのを耐えがたく思う近代人というのはいるわけですが、そういう人を見かけるとつい僕は、感性などというろくでないものこそ文化という外部存在の隷下にしかないじゃないですかねと、皮肉を言いたくなってしまうのです。
近代人の前提条件が個であるならば、その変遷は、個の約束であった神との関係性を断ち切ってからは、個の存在する理屈として、例えば才芸であるとか、個性であるとか、感性といったものをあてがったわけですが、僕は子供の頃から、本に陶酔してぽやんとしているキャラクターが欺瞞に思えてならないかわいげナッシングのガキンチョだったので、文化に隷属し、呪縛されていても、ちっともプライド傷つかんのです。そもそも主体的意志なんてアヤシゲな信仰を持った例はないしね。 今、モンペアだ何だと、今更ながらに騒いでいるけれど、僕は個というものの限界に思えるんですね。個、その自己が、昔は神と交尾していたくらいの絶対であったのが、神と手を切った後も延々続いているわけで、それが社会生活の中で満足するオナニーであれば他人様に迷惑はかけないけれど、そうじゃないオナニーが肥大するというのが、個をベースにした社会の限界点でないかと思うのであります。 まあ世の中が上等になってきて、誰も「こんなクズに生きる価値なんぞない」と言わないから、オナニーの自覚がない悪循環になるんだけどね。
いつもゴールを意識する。
成功というゴール、挫折というゴール。何処か出口をいつもイメージする。 だけれどもスピードを速くすればするほど、ゴールは不思議と遠ざかる。 だから途中で立ち止まる。 手に届くくらいそこに、それはあると思えるのに、果てしなく遠い。 落胆する。でも、それでも走り続けている。 いつゴールとするのか、わからない。 だけれども励ましが聞こえる。 前に進んだ分の実感が、自分と他人の文章の隙間からにじみ出てきているのが分かる。 もう少しだ。きっと。
保坂和志の小説と、あまり相性が良くなかったのだけれど、最近になって保坂の小説論が面白く、というよりも明確に励まされている。うまくいかないことが肯定されている。これは、社会的成功だとかそういう意味においてはあまり望ましくない状況なのかもしれないけれど、所詮その程度にしても励まされている自分がいる。
一節、言葉は昔の方が高度であったという言葉に、大いに肯きつつ、それはほとんど全ての表現においてそうでないかと思ってしまう。 消費、この概念というのはつくづく大きいんじゃないか。僕らは矢継ぎ早に消費するために、流動食みたいな咀嚼を要しないものばかり口にしては排泄しているのだろう。 「大勢に読んでもらうために、わかりやすく書く」 この発想に、前からレントゲンに写った影のような、イヤな違和感を覚えていた。今、消費という観点から考えて明確に分かる。ヘドが出るってやつだ。 もちろん最早消費に抗うというのは、ものすごく困難だ。(消費社会を改めなければならない、なんて教条的に主張しているエコロジストみたいにアタマが悪ければ、世の中生きていて幸せだと思う) そもそも、商業ラインに乗るということは、消費に加担するということであり、消費について偉そうなことなんて言う資格がない。だけれども、自己存在が消費物であるという事実に対して抗って、力尽きてくたばることが、理想といえばそうである全く意味のない反抗だ。ともかくも、わからないといわれることを勲章に前に進まねば、ということだ。
一人はとても心細い。自分が間違っているのかいないのか、分からない状態がずっと続く。
これまで考えてきたこと、積み重ねてきたもの、全部間違いだったのかもしれないと惑うこともある。 ただ、誰かに「そうじゃないんだ」と根拠もなく言われても、一人は一人であることに何の変わりもない。 怖いくらいに、他者と僕とは言葉を共有できないし、僕も他者と言葉を共有できない。 ただ、できないから、小説という、文学というコミュニケーションの手法にすがりつく。 すがりつくから怖い。諦めてしまえばどうでもよくなる。それができないから怖い。 怖いけれど、怖さを感じる自分をすりつぶして、違和感ばかりの他人の言葉に隷属することはできない。 それが一人で書くということ。 精一杯チャンネルを開く。 そこには何の楽観もなく、夢もなく、望みもないといえばない。 そこに星があり、感性があり、太陽の光に満ちて暖かである、そのことを、嫌悪して僕は独りでいる。 阿ることも、迎合することも、屈することも、我慢することも、 リアルライフでいくらでもやれるし、やってしまっている。 そのことをせめてやりたくないから、文学をやっている。 好きなことを精一杯やるために、ワガママでいる。 そのことに精一杯チャンネルを開きながら、間口を広く取らない。 敢えて狭くしているわけではないけれど、他人の家に案内も請わず土足で入る無神経に逆毛立たせる。 懸命に開く。 それでいいし、それ以上はできないし。
ウチは母親がハマっているので、かなりなヘビーローテーションなんだけれど、メシのときに見せられるのが苦痛でね。まあ断片だけなんだけれど、ひでえんだ(笑) ただ補足すれば、日本のドラマだってひでえからね^^
やっぱりね、視聴者はアタマが悪いというのを前提にしてモノを作るのが悪いんでないか^^ わかるやつだけわかれ、わからんやつは散れ、そううそぶくことって、ものつくりにとって重要な傲慢さじゃないかと思う。誰にでもわかるようなものを書くとかってほざくのはさ、いいともですよ(笑) オレはあんなバカなこと、絶対嫌だよ。
フジの騒動は、何と言うかかんと言うか(笑)
いやね、高岡氏やふかわ氏の言いたいことは分かるのですよ。それは、彼らはテレビに参入する側だから。テレビという存在の中で彼らのポジションが韓流に漸減されるというのは、メシにかかわってくるわけだからね。一昔前の、日本製品のボイコットと心理的には同じだよね。ふかわ氏のフェアネスの観点というのは、おそらく一面の真実なんだろうけれど、でもそんなの今に始まったことでないんでないの。自分たちもえこひいきやごり押しあっての芸能界の一員であるわけっしょ。たまたまその一角に韓国ものがあるといって、今更わかったようなことを言いだすのは、そんなにフェアではないと思うけれど、生活に関わるという論理ならばその部分についてうなずける。 だけれども一般の視聴者が云々というのは、またちょっと違うと思う。いや、生理的な反発というのならばまだわかる。そこにミョーな理屈や風潮が乗っかるのはどうもね。 どうせテレビしか見ないのなんて、必ず何かの情報に偏向されるしかない人達じゃないですか。そういう人達が韓流に洗脳されるのがマズイの? つうか、日にだって洗脳されているんだから同じだって。 まあ、席巻されるのは、まさしくふかわ氏の言うとおりで、テレビが終わっているってことだと思う。ただしそれは高岡氏やふかわ氏も含んでのことだよね。彼らはテレビの人でしょう。いくらただの兵隊だとしてもね。 今の韓流の膨張や中国のバブリーな有様って、かつての日本の焼き直しと、日本人には見えるところがある。まあ露骨なパクリから、正当な手続きを踏んだコンテンツのリメイクまで様々だけれども、そこにノスタルジーという居心地の良さを覚える人間と、自画像に苛立つ自己嫌悪の人間が真っ二つなのが今の日本なのかもしれない。もっと言えば、最早日本でノスタルジーの範疇の中でモノを作るには、テレビにフロンティアがなくなったのかもしれない。ポテンシャルを全て浪費してしまったのかもね。ふかわ氏のテレビの終焉という言葉は全く正しい。だけれどもそれは、フェアネスからの逸脱とは全く異なると思うんだよね。まさしく彼らも含めたコンテンツの作り手たちの衰弱こそがテレビの終わりを示しているんでないだろうか。 っていうか、そんなことを言い出さずともさ、平日昼にフジにチャンネル合わせれば、画面の中は絶望しかないでしょう。あんなバカな客が幼稚園のお遊戯みたいに声をそろえて手拍子でさ。バカばっかりじゃないですか。あれ見れば終わっているって一目瞭然じゃないか。悪いけど韓流もまあオーバーでひでえのはひでえけど、いいとものくだらなさよりひどいのを見つけるのも結構大変かもよ。
宇賀神さんの「ゴルフは上手くなったと思った途端に下手になっていく」というのはつくづく他者への理解と同じだと思うわけで、他人を理解したと思った瞬間に誤解が生じるという寂しいズレと、それを抱え持って生きるしかないっていう諦観が、僕の中でようやくハッキリしてきた感があります。
理解したと確信を持った人間の表情って、つくづく醜いよなあ。やっぱり僕の気質としては、散々迷い惑う人が好きだなあ。 そうそう、僕は作家の顔というものの中でも、賞を受賞したときのあの顕示欲が満面に表れる顔、あれが一等イヤですね。
文芸も商品だし消費されるものだけれども、藝術というのは経済であるにも拘らずその消費という概念を否定するとても人間臭いものなのであって、つまるところ矛盾であるわけですが、能天気にだれそれ風の作品とか、初手から亜流でね、そのくせ消費財としての確信的でもない有様に、くだらないなあとも思うわけでありますよ。
読者も魯鈍であるわけだから、先例のない作品を受け付けない保守的閉塞的読解力で、亜流を求めながらも、亜流を亜流として軽侮する。亜流でなければ流通せずに商品価値がないけれど、亜流であるから動脈硬化に及ぶ。 僕は一昔前はそれを糾弾する気分であったのだけれども、それはそもそも商品であるから悪いということに段々向かってきたわけで。 しかし、そのくせ平然とどの口が様式や形式は良くないとかって言うんだよねえ。自分の中で整合しないで断片だけで思考しちゃいかんよなあ。
僕が十代の頃というのは、日本人のスタンダード的なイメージに対するアンチテーゼが大はやりの時期で、とかく日本人は自己主張しなければだめだという論調がそこかしこにあった。中田ヒデなんて同学年だけれども、その結晶体のような気がする。結論から言うと、自己主張っていう言葉に酔いしれていたあのアンチテーゼは結局空疎だったような気がするし、第一自己主張する人間なんてどう理屈をつくろったところで薄汚いんだよね。
美しいままで埋まっていくか、薄汚いほど脂ぎって生きるか。そういう択一の中で、やむを得ず薄汚さを選択するということと、単に自己主張って世界の常識なんだからそうしなきゃダメッってキュンキュンするのと、根本から違うんだな。村上龍くらいアタマが悪いとキュンキュンでちょうどいいんだろうけど。 別に日本に限らず、大きな惑いの時代だと思います。自己主張なんて勉強不足で恥知らずでアタマが悪けりゃいくらでもできるけれど、そういう自己に躊躇してしまうほど、自分の中の心棒になる絶対って乏しい。そういうものはほんの少しを、長い時間をかけて手探りで、ようやく見つけられるんじゃないかと思う。そうでないのは恥ずかしいよ。
自分には業があるから、他人よりもずっと餓えて、だから満足できないし、走り続けるしかない。
もっともらしい。だけれども結局他人のことなんてそれは想起できるのか。 誰だって業があり、誰にしも生活があり、汚濁の中で清浄に焦がれ、手の届く範囲の者を必死に守ろうとし、届かぬものに苛まれる。芸能人、芸術家、スポーツ選手、そういう連中が特別なわけではない。 才芸の違いというものは人間にはある。個性の差というものもある。僕もずっと、そういうものに幻惑されて生きてきたし、そういうものがある人間は立派だと思っていたけれど、そろそろ卒業してもいい頃だという気分でいる。結局どうしたところで、人間は他人のことは理解できないし、理解したつもりになっているものはその人間の思い上がりでしかない。俗世の中で様々に力を持った人間、日当たりのいい人間は、その思い上がりを思い上がりとさらされることが乏しいから、ついそれを真実だと思うし、自分のように生きない人間をダメだと理解することで理解を終えてしまう。別にそのことを糾弾するつもりもないし、僕自身も同様だ。だから結局、もし神様という存在があるならば、人間なんて等しく愚かなんだろうとつくづく思う。人間の平等って、多分等しく立派だということではなくて、尊厳とかそんな上等なものでなくて、みんな愚かでみんな醜いということなんだろうと思う。その中で賢く、美しく生きるというのはどういうことなのか、誰もが自分なりの答えを求められるのが生なんだろうね。 誰にしも業があり、誰もが自分を持て余している。自分にとっての何かを解決するのに、それを克服する人もいれば、逃避する人もいて、俗世的には克服した人間が成功者、勝ち組ということになるのだろうけれど、僕らは少し、俗世の成功とやらを尊び、不遇を嫌悪しすぎなんだろう。立ち向かっても、逃げ出しても、別にどちらかが偉いわけではない。例え社会的な成功があったところで、特別でもなんでもない。醜い勝利者という安直なベクトルで倒錯したくはないけれど、そんな人間腐るほどいる。 当たり前のように、誰かと同じように、僕も生きるのに苦労してます。でも不思議と僕らはお互い同じでも、他人のそれをお互い理解できないものだね。つくづく人間というのは愚かなものなんだろうね。
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